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ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』の主人公・北条時行とは何者か?サクッと解説しています

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書いた人:乃木(Twitter

◆北条時行って誰ぞ

 この記事は令和3年1月30日に書いていますが、この名が俄然世間で注目されるとは思ってもみませんでした。

 それというのも『暗殺教室』でおなじみ松井優征さんの新連載、『逃げ上手の若君』が目出度く週刊少年ジャンプで始まったのですが、それがまさかの「北条時行」を主人公にした歴史物。

 正直我が目を疑いました。え、ジャンプで「中先代の乱」やるんすか……。

 そして巷間からも聞こえてくる「誰?」

 北条時行といえばギリ学校で習う人物ではありますが、恐らくその名は先生の口にのぼせられて数十秒の命数であったろうと思われます。格別日本史に興味がなければ、ほぼほぼ忘れ去られてしまう名であります。

 では一体どんな人物なのでしょう?

 以下、公式プロフィールになります。

◆子ども大将

 時は鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱へと向かう端境期──。

 後醍醐天皇による建武の新政が始まるのですが、間をおかずして旧幕府を主導した北条一族の残党が叛旗を翻し、各地で蜂起しました。

 そして倒幕から二年後の建武2年(1335)7月、その中でも最大規模の反乱が信濃、現在の長野県より起こります。

 これが世にいう「中先代の乱」です。乱の首魁は北条時行。このとき恐らく10歳以下。

 ──おやおや、おかしな話ですね。10歳以下? それでリーダー?

 が、現状このように書くしかないのです。

 ちなみに「中先代」、というのは妙な言葉ですが、これは「先代」と「当御代(とうみだい)」の間、という意味と考えられています。つまり先代たる鎌倉幕府の北条氏と、当御代・足利尊氏の間で一瞬だけ鎌倉の主となった時行を「中先代」としたという訳です。また鎌倉を占拠したのが二十日余りだったので「二十日先代」などとも称されます。

 この「中先代」こと北条時行なる男児。何者かといえば、「先代」である鎌倉幕府十四代執権にして最後の得宗・北条高時の次男です。

 相模次郎などとも呼ばれ、幼名は『太平記』によれば亀寿、『梅松論』では勝寿丸とされます。ちなみに元服後の諱(実名)である「時行」は一般的に「ときゆき」と訓じられていますが、「ときつら」と読まれていた可能性も指摘されています。(※)

※鈴木由美「北条時行の名前について」(日本史史料研究会編『日本史のまめまめしい知識』)

 さてこの時行ですが、生年が分かっていません。ゆえに「以下」などという妙な表現になる訳ですが、ではなぜ「中先代の乱」の時が「10歳以下」なのかといえば、彼には異母ながら生年が特定できる兄がいたからです。

 兄の名は邦時。通称は相模太郎、幼名を万寿丸といい、元服の記録から逆算して正中2年、1325年の生まれとされます。ゆえにそれより下と考えられるので、時行自身は1335年時点で10歳以下であったろうと考えられる訳です。

◆一族滅亡

 以下の生い立ちは『逃げ上手の若君』でも流れるように語られているところですが(手際のよいことに連載一回目で終わらせています)、この時行がまだ歳一桁の幼少であった元弘3年(1333年)、鎌倉幕府は伯耆国・船上山で挙兵した後醍醐天皇を討つべく、名越高家と足利尊氏(この頃は『高氏』)を派遣します。いわゆる「元弘の乱」です。

 ところが尊氏は京で寝返り、幕府の出先機関である六波羅探題を攻めます。そのうえ、5月(旧暦)には上野国(群馬県)で新田義貞が挙兵。鎌倉を脱出していた尊氏の子・千寿王(後の義詮)と合流し、鎌倉に攻め寄せます。ちなみにこの時、新田軍に合流した千寿王は父・尊氏の名代、名目上の総大将として扱われました。わずか4歳の幼児です。

 当時の幕府の長は9代将軍・守邦親王という人ですが、一般的にほぼ空気扱いの気の毒な方です(最後の将軍でかつ最も長く在職したのに、多分最も無名)。というのも当時の幕府は「得宗家」と呼ばれる執権北条氏の嫡流が実権を握っていました。が、その得宗とても、時行の父である北条高時の代になると半ばお飾りになり、幕政は外戚・安達時顕や「御内人(得宗家の被官)」である長崎円喜&高資親子といった人々が主導するところとなっていました。名誉職のサブすら名誉職、という妙な状況です。

 父・高時は『太平記』などの影響で後世暗愚に描かれることが多かった人物ですが(闘犬と田楽狂いで有名ですね)、そもそも政務を与る前に権力から遠ざけられていた上、当人も病弱であったと言われるので、かなり酷な評価と言えます。

 ちなみに『逃げ上手の若君』では「幕府総帥」というフワっとした肩書でしたが、実際の高時は1326年に執権職を辞しており、最後の執権は16代・北条(赤橋)守時でした。(※1) 権力が幕府の役職である執権から、それを独占した一族自体の嫡流である「得宗」に移っている、という歴史的状況がヤヤコシイのでその辺りは割愛しているのでしょう。

 そんな父・高時ですが、前述の新田義貞によって攻められ、儚くも元弘3年5月22日(1333年7月4日)、葛西ヶ谷・東勝寺にて一族郎党870人余りと共に自害。ここに源頼朝の創始した鎌倉幕府は滅亡します。(※2)

 ちなみに大河ドラマ『太平記』での北条一門の自害は名シーンなので是非とも御覧ぜよ。

※1(『太平記』の記述から鎌倉陥落直前に北条貞将が17代執権に就いたという説もあったりしますが、実質的な最後は守時であると言えます)

※2(現地の東勝寺跡に行ってみれば分かりますが、そんな大勢が一所に集まって自害というのはかなり無理があるので、その数字が史実かどうかは微妙です)

◆逃げた弟、逃げられなかった兄

 さて、多くの同族が敗死する中、高時の二人の子、邦時と時行は鎌倉脱出を図ります。

 時行は諏訪盛高の助力によって信濃に落ち延び、御内人で諏訪上社大祝(『梅松論』)であった諏訪頼重のもとに匿われることになりました。『逃げ上手の若君』でもかなりクセの強い頼重が登場していますね。諏訪大社の神官である大祝ということもあってか、半ば異能者として描かれています。ちなみに直接救出したとされる盛高は系譜も経歴も判然としません。だからか漫画では頼重一人の事績としてまとめられていました。

 一方、兄・邦時は叔父・五大院宗繁に伴われて伊豆山(熱海市辺り)方面へ落ち延びようとします。

 ──が、こともあろうに庇護者たる宗繁その人によって新田方に引き渡されてしまいました。敵に売られた訳です。

 そうして邦時は縄で縛られたうえ、馬で鎌倉に連行されるのですが、太平記によれば、

「是を見聞人毎に、袖をしぼらぬは無りけり」

(この様子を見聞きする人で涙を流さぬ者はいなかった)

 ──幼い若君を憐れむ人が多かったようです。

 しかし中世のならいか翌日には首を刎ねられました。9歳でした。

 なお、若君を売り渡した五大院宗繁ですが、その「不道」な行いを責める声が上がり、新田義貞も世論を受けてこれを誅すべしとの命を下します。

 宗繁はそれを察知して逃亡しますが、所業は方々に知れ渡り、知己といえどみな彼を見限ったそうです。そうしていずこへさすらおうとも一飯を与える人もなく、宗繁は乞食同然の姿になり果てた挙句、路上で餓死したといいます。

『太平記』におけるこの宗繁の末路が史実かは分かりませんが、当時の世間には邦時に対する強い同情があったのでしょう。

 幼子といえど容赦のない中世。庇護者の裁量一つで幼い兄弟二人の明暗はこうもハッキリ分かれてしまった訳ですが、この鎌倉脱出行こそ若君最初の「逃げ上手」であったと言えます。この後、時行は確かに幾度かの「逃げ上手」をやってのける訳です。

◆残党蜂起

 とはいえ、信濃で諏訪頼重に庇護されていた時行の生活ぶりというのはよく分かっていません。伊那に潜伏していたという伝承はあるようですが、確かな記録は残っていない訳です。逆にいえば自由に創作を膨らませる余地があると言えましょう。そんな信濃の日々がどう描かれるかは楽しみですが、歴史のうねりは一瞬だけ時行少年のことを忘れます。幕府滅亡後、後醍醐天皇によるいわゆる「建武の新政」が始まるのです。

 時行の故地・鎌倉には足利尊氏の弟・直義が入り、後醍醐の皇子、成良親王を奉じて「鎌倉将軍府」が設置されます。建武政権における関東支社のようなものです。

 しかし建武政権が発足して間もなく、諸国に北条残党、或いはその被官らによる反乱が群発します。北は奥州、南は九州までと、全国規模で立て続けに起こっていて、一体どこに隠れていたんだと思うところですが、幕府が滅亡しても北条氏そのものは根絶やしになった訳ではなかったのです。

 一般にこれは北条残党による幕府再興運動と見なされることが多いです。しかし北条時行の研究で著名な鈴木由美さんは、これは北条残党による蜂起というより、建武政権に不満を持つ武士たちが北条一門を担ぎ出して起こした反乱ではないかと指摘しています。

 武士は反乱を起こす際、正当化のため、或いは与党糾合のため大義名分を求めますが、「北条」というブランドがそれになり得たということです。つまり北条は建武体制以前の正統な「先代」であるという認識が、多くの武士たちの中にあったと考えられる訳です。そんな北条ブランドでも屈指の正統性を持つ者といえば、やはり先代たる得宗の血を継ぐ時行でしょう。

◆中先代の乱

 建武二年(1335)6月、朝廷内で公卿・西園寺公宗らによる謀叛が発覚します。後醍醐天皇を廃し、持明院統(後醍醐の大覚寺統と対立していた、後の北朝)の上皇を擁立するという転覆計画でした。

 西園寺家は代々関東申次を務める家柄。すなわち朝廷と鎌倉幕府の交渉・連絡を仲介する役目を負い、昔から北条氏との繋がりが深かった家です。『太平記』曰くこの計画には北条高時の弟・刑部少輔時興(北条泰家)が参加しており、彼が京方面の大将として畿内近国の味方を糾合。そしてその甥・相摸次郎時行が関東の大将として甲斐・信濃・武蔵・相摸の軍勢を、名越太郎時兼が北国大将として越中・能登・加賀の軍勢を集める、との計画でした。

 幕府滅亡、そして父・兄の死から二年でにわかに時行の名が浮上したのです。

 もっともこの3人の出馬計画は『太平記』による記述であり、リアルタイムの史料では確認できないようです。そのうえ西園寺公宗の陰謀は未然に露見しています。

 が、実際にこの直後の6月下旬ないしは7月初頭、時行は諏訪頼重・時継親子に擁立され、信濃で挙兵するのです。(『梅松論』によれば滋野氏も参加)

 ここに「中先代の乱」が勃発する訳ですが、この時の時行はむろんまだ少年です。幼心にも建武政権や足利尊氏に対する恨みはあったかもしれませんが、自ら立ったというよりは先ほど述べたように政権に対する不満分子たちに担ぎ出されての挙兵と思われます。軍勢はもっぱら諏訪親子らが指揮したのでしょう。

 しかし時行のネームバリューが潜在的不満分子を引き寄せたのでしょうか。『梅松論』に曰く「国中をなびかす」ほどの勢力に増大した彼の軍勢は驚くべき速度で快進撃を続け、7月24日までに足利直義ら鎌倉将軍府方を撃破。鎌倉を占拠することに成功します。中先代・時行の帰還です。

◆逃げ上手の宮様

 ちなみにこの戦いのドサクサに紛れて、鎌倉にいた或る人物が落命しています。

 後醍醐天皇の皇子・大塔宮こと護良親王です。もとは梶井門跡、比叡山延暦寺の座主などを務めた法親王(僧侶の親王)でしたが、楠木正成らと共に討幕運動を展開し、幕府滅亡後は一瞬だけ征夷大将軍だった人物です。しかし建武政権では失脚し、この頃は鎌倉で幽閉されていました。

 時行の軍勢が迫る23日、成良親王らと共に鎌倉を脱出しようとしていた足利直義は、配下の淵辺義博にこの護良親王を殺害させています。

 理由は時行が護良を将軍として奉じ、幕府を再興する恐れがあったから、とされることが多いです。が、真相はハッキリとは分かっていません。

 ただ護良は後醍醐方の中でもとりわけ「反北条」色の強い人物と言われ、また時行も持明院統の上皇を奉じる方向で挙兵しているので、両者の提携は考えにくいという見解もあります。(亀田俊和『征夷大将軍・護良親王』)

 ともかくこの護良、史料が少ないながら実は『太平記』などでは「逃げ上手な宮様」ともいうべき人物だったりします。

 というのも、元弘の乱が始まると護良は畿内を潜行しつつゲリラ戦を展開していくのですが、幕府方の追捕を逃れるため、寺の唐櫃や塔の梁に隠れてやり過ごす、或いは配下が護良の身代わりとなって脱出させる等の逃避行、危機一髪エピソードがあるのです。

『逃げ上手の若君』では時行はかくれんぼが上手く、鎧櫃に潜むというようなシーンがあります。これはどこか護良の唐櫃隠れを連想させますね。

 史実で両者が出会っていたとは考えにくいかもしれませんが、各々人生で最も重要な局面にあって、鎌倉で運命が交錯したともいえる二人です。漫画ではちょっとした絡みを期待したいと思います。

◆キッズ・ウォー

 閑話休題。

 晴れて鎌倉を奪還した時行。繰り返すようですがこの時まだ小学校低学年くらいです。思い返せば、彼から父や鎌倉を奪った反乱軍の大将は、名目だけといえど4歳であった足利の千寿王です。そして朝敵の子として斬首せられた時行の兄・邦時は9歳でした。また、触れてはいませんでしたが、千寿王には竹若丸という庶兄がおり、彼は鎌倉脱出後に幕府の追手に殺害されました。

 名目だけとはいえ、子が子を討ち、逃げられた子と逃げられなかった子がいる。幼い若君の逃げ道には因果と無常が敷き詰められているのでした。

 さてここからネタバレ──も、何もないとは思いますが、登場人物たちの末路は知らなくてよい、という人はここでブラウザを落として漫画を読まれるのがいいかと思います。(そこまで徹底した人がいるかはわかりませんが……笑)

 ともかく鎌倉の主になった時行ですが、それもわずか20日あまりのことでした。

 ラスボス足利尊氏が鎌倉陥落の報を聞き、軍を率いて下ってきたからです。

 この時、尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍、総追捕使への任官を求めますが、これは認められず、勅許を得ないまま出陣します。かつてはこれを以て尊氏が建武政権を離れ、幕府を開く意志があったとする見方がありましたが、昨今では関東の時行に対抗する権威として必要上、征夷大将軍の地位を求めたと考えられるようになってきました。(※)

※細川重男「足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」(「南朝研究の最前線」) / 呉座勇一「陰謀の日本中世史」

「先代」の遺児たる相模次郎/北条時行の権威が反乱の大義名分としての効力を持ち得た、という仮定に照らし合わせるならば、それを討つのに征夷大将軍という権威が必要であった、というのはうなずけるところです。

 そして尊氏は敗走していた直義と合流、時行軍を打ち破り、8月19日には鎌倉を再奪還します。

 この時、時行を庇護し、総大将に奉じた諏訪頼重と時継親子は鎌倉・大御堂(勝長寿院)で自刃しました。ウソかホントか、『太平記』によれば自害した四十三人の与党、みな身元が分からぬよう顔の皮が剥がされていたといいます。

 しかし時行自身は2年前の幕府滅亡の時と同じように逃走します。

 これが、わずかな期間ですが時行の名を知らしめた中先代の乱でした。

 時行を破った尊氏はその後、後醍醐からの帰京命令にもかかわらず、直義の説得を受けて鎌倉に残ります。そのことが叛意と映り、後醍醐は新田義貞らに尊氏追討を命じ、ここに両者は決裂することになります。鎌倉幕府からの離反に次ぐ、第二のターニングポイントとしてよく知られています。

 しかし近年の研究では、この時の尊氏自身は後醍醐に対して謀叛を起こす気などなかったのではないか、と考えられています。(有名な話ですが、尊氏は初め新田軍と戦うことを拒否し、遁世しようとしています)

 いずれにせよ、この中先代の乱は足利尊氏と後醍醐天皇が決裂して起こった建武の乱(延元の乱)のきっかけとしてだけ語られることが多いです。つまり時行は尊氏にとっての当て馬といいますか、来たる南北朝動乱の分岐点という役割だけを負わされてきたようなところがあります。なので必ず名前は出てくるのに存在感の薄い人物だった訳です。

 しかし尊氏に敗れたとはいえ、短期間の内に東国の武士を糾合して鎌倉を取り返したという事実は軽視できません。鈴木由美さんの指摘するところですが、幕府滅亡後も「先代」北条の影響力は強かったのです。

◆南朝の相模次郎時行

 さて逃げた時行ですが、その後の足取りはよく分かっていません。

 また一瞬歴史から忘却される時行少年ですが、外側では追討軍・新田義貞が足利尊氏に敗れるも、さらに奥州からは南朝方・北畠顕家が攻め上り、新田、楠木正成らと共に尊氏と一進一退の死闘を演じます。実に東北から九州までを股にかけた長大な戦線で繰り広げられる激闘でした。

 これで時行退場か──。と思いきや、延元2年・建武4年(1337)頃までの間に、彼はなぜか南朝方の武将として復帰していました。

『太平記』に「相摸次郎時行勅免事」という記事があり、後醍醐天皇から勅免の綸旨を受けたとされます。南朝に帰順し、許されたのです。

 そもそも後醍醐の南朝(大覚寺統)は父や幕府を滅ぼした側。いわばカタキの親玉です。中先代の乱においても持明院統(北朝)を擁立する計画に加担する形での挙兵でした。にもかかわらず南朝に加わったということは、時行が討ち果たすべきカタキとは一貫して「足利」であったようなのです。

 もっとも、南北朝の動乱ではこうした意外な投降や裏技的な身の振り方は珍しくありません。というか、彼のカタキであった足利の親分たちはモットえげつないことをしています。

 ともかくも延元2年・建武4年(1337)。『太平記』に曰く時行は5千余騎を率いて伊豆で挙兵。足柄・箱根を押さえ、奥州から攻め上る南朝方の北畠顕家、上野国で挙兵した新田徳寿丸(義興)と合流します。こうして北畠軍は12月23日(『鶴岡社務記録』)、もしくは12月28日(『太平記』)、鎌倉を奪還。時行は二度目の帰還を果たします。

 ちなみにこの連合軍に加わっていた新田徳寿丸こと義興は、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の子です。いわば「直接のカタキ」 しかし彼の敵はあくまで足利なのです。これは不思議な気もしますが、鈴木由美さんは新田はあくまで足利の指示で鎌倉を攻めたからであろうとしています。

 かつて新田義貞は『太平記』の影響で当初から足利尊氏のライバルであるかのように語られてきましたが、昨今、義貞自身は足利尊氏の指揮下にあった、或いは足利一門と見なされていた、という見方になってきています。となると時行が新田そのものよりも足利を敵視していることと辻褄が合う訳です。新田がもし子分であるなら、親分の方のタマを取ろうという理屈です(その子分は今や味方なのだし)。

 北畠顕家と時行は京を目指して軍を進め、延元3年・暦応元年(1338)1月28日、美濃の青野原で足利方の高師冬、土岐頼遠らを撃破します。

 そして5月22日、和泉国石津(大阪府堺市)の戦いで顕家は討死してしまいます。しかし時行はここでも逃げおおせています。三度目の「逃げ上手」です。

 そして忘れかけていましたが、彼まだ小学校高学年か中学生くらいなのですね……。

 さてその後の時行ですが、例によってよく分かりません。

 が、同年、後醍醐天皇は皇子の義良親王、宗良親王、そして北畠親房らを奥州に派遣することに決めます。『太平記』では関東八ヶ国を平定して義良らを支援させるため、新田義興と時行を武蔵と相摸に下向させたとあります。

 また義良一行は伊勢(三重県)の大湊から出航するのですが、その中の宗良親王の船団に時行が加わっており、遠江国(静岡県)の井伊谷まで同道した──という記事が、徳川光圀の命で編纂された『参考太平記』にあります。(※)

※鈴木由美「鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族」( 『南朝研究の最前線 』)

 また守矢文書(※)の『守矢貞実手記』には興国元年・暦応3年(1340)6月、時行が諏訪頼継らと伊那の大徳王寺城で挙兵。信濃守護・小笠原貞宗と戦ったという記事があります。大徳王寺城は落城、ここでも時行は逃走しているようです。

 しかしこの戦いはこの文書にしか記されておらず、一方の当事者である小笠原氏側の史料では全く出てこないということで、事実かどうかは分かりません。

※諏訪大社上社神長の守矢家に伝来する文書群

◆最後の闘争、最後の逃走

 ことほどさように、かなり頼りない時行の消息ですが、一応南朝に属してはいたようです。

 10年ほどして、カタキの方では足利尊氏&執事・高師直と、尊氏の弟・直義の間で対立が起きていました。室町幕府の内紛です。それはやがて正平5年・観応元年(1350)10月、いわゆる「観応の擾乱」という形で全国に飛び火します。詳しくは中公新書の『観応の擾乱』(亀田俊和)をお読みいただくとして……(説明しきれません……)、やがて尊氏は直義を討つため南朝に降伏するという、ちょっと何を言っているのか分からない、という状況になります。いわゆる「正平の一統」です。

 そうして正平6年・観応2年(1351)12月、薩埵山の戦いで尊氏は直義を破り、翌年正月5日に直義は降伏して鎌倉に入ります。

 観応の擾乱は終結しますが、一方、尊氏と講和したはずの南朝は正平7年には幕府を倒すべく動き始めます。

 閏2月15日、関東は上野国で南朝の新田義宗・義興、脇屋義治らが挙兵。信濃では宗良親王が挙兵。そして閏2月20日には同じく南朝の楠木正儀(楠木正成の三男)が京に侵攻。ここに正平の一統は崩れ、南北朝の戦いが再開されます。

 新田軍は人見原と金井原で尊氏軍と戦いますが、撃破されてしまいます。そして新田義興・脇屋義治らが鎌倉に入るのですが、このとき義興軍に時行が同行していたようです。『鶴岡社務記録』の文和元年(正平7年)の条には、

「廿日新田鎌倉入於武州金井庄合戦御方打勝了御敵没落云々相模次郞ト号仁鎌倉入」

(20日、新田は鎌倉に入る。武州金井荘の合戦では味方=足利が勝ったという。相模次郎と名乗る人も鎌倉に入った)

 とあります。時行、三度目の帰還であります。

 思えばかつて鎌倉を落とした者の遺児と、落とされた者の遺児とが手を携えて同じ地を踏んだ訳です。時行の逃れる道、帰る道、やはり因果が敷き詰められているといえましょう。

 しかしこの鎌倉入りも長くは続きません。その後、義興と共に鎌倉を出、三浦に向かいます。そして義興軍は三浦高通と連携し、28日、鎌倉に入った石塔義基らと戦ってこれを撃破します。

 しかし同日、武蔵の小手指原、入間河原、高麗原では新田義宗軍が尊氏軍に敗北。その後、笛吹峠でも破れ、それを受けてか義興と三浦勢も3月2日に鎌倉を退去します。

『鶴岡社務記録』では義興が三浦に向かったと見られる「廿二日新田相模等鎌倉ヲ出」の記事以降、時行の名前は出てこないので、彼がいつまで義興の軍にいたか分かりません。が、義興の鎌倉放棄に合わせてやはり「逃げた」のでしょう。

 しかし彼の「逃げ上手」もここまでだったようです。

 翌年、北条時行は足利方に捕縛されます。

『鶴岡社務記録』の文和2年(1353)5月20日の条にはこうあります。

「廿日於龍口相模次郞長崎駿河四郞工藤二郎被誅了」

(20日、龍口において相模次郎=時行、長崎駿河四郎、工藤二郎が処刑された)

 共に斬られた長崎駿河四郎、工藤二郎は御内人である長崎氏、工藤氏の一族であろうと考えられています。

 時行が最初に鎌倉を追われてより20年、ずっと彼に従っていた者たちかもしれません。

 このときの時行、恐らくは20代半ばでありました。

 ちなみに龍口とは現在の神奈川県藤沢市片瀬の辺りで、鎌倉時代には刑場があったことで知られています。

 著名なところでは日蓮が執行寸前で刑を免れ、元の使者である杜世忠一行が斬られています。

 また時行と同様、南朝方として蜂起した北条友時(普音寺友時)もここで処刑されたと考えられています。(『鶴岡社務記録』)

◆戻ってくる男

 さてザックリと北条時行の逃げっぷりを概観してきましたが、こうして見てみますと勿論ただ逃げていた訳ではありません。

 逃げては必ず「戻ってくる」男なのです。

 不屈の精神といいますか、執念といいますか。「足利殺す!」の一念で鎌倉を取り返しに何度でも戻ってくる男です。

 そして終焉が龍口であったなら、鎌倉と同じ海を見て死んだことになります。

 最後の最後も、彼は戻ってきた訳です。

◆つまり何が言いたいかというと

『逃げ上手の若君』の今後の展開が楽しみですね!

 ちなみに北条時行については単独で採り上げている書籍が少ないのですが、『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(日本史史料研究会監修 ・呉座勇一編)で鈴木由美さんが詳しく書いております。おススメです。

 や、長々だべりました。

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近年、急速に進展した研究から、 〈建武政権・南朝は武士を優遇していた〉、〈室町幕府は「南朝の合体」以後も”南朝の影”に怯え続けた〉など様々なことがわかってきた。 一次史料を駆使し、南朝=特異で非現実的な政権という定説を覆す。

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